2013年1月24日木曜日

「マグマ」~脱原発、親地熱




地熱発電のことを知るには絶好のマニュアル本だ。

「脱原発」、「クリーンエネルギー万歳」の叫び声をよく聞く世の中だが、チネツのことは巷の噂にならない。地中を掘るというのは大手ゼネコンにとってうま味のあるビジネスだし、公共投資にもピッタリ。原発の代替を考えるなら、発電量の点では太陽発電よりチネツだろう。

なぜチネツは評価されないのか。そんな疑問もこの小説を読んでいると、解消。同時にチネツの虐げられた運命に同情。火山国ニッポンでは地震におびえるより、地の力を使いこなすべきだと思うのだけど。

物語は外資系ハゲタカファンドが日本の地熱発電のベンチャー会社を買収したところから始まる。ベンチャー会社を中心に外資ファンド、政治家、原発運営電力会社、温泉旅館組合などが入り乱れての利権争いは意外なエピローグを迎える。

正直、読み物としては、取って付けたような展開で、すっきりしない終わり方なのだが、原発の対案として地熱発電はアリだと思わせるプロパガンダ小説としてはすばらしい。

2013年1月12日土曜日

「横道世之介」~夏目漱石の「三四郎」が読みたくなる

横道世之介


映画化されることを耳にしたので、読んでみた。

夏目漱石の「三四郎」が80年代のバブル期に生きていたら、横道世之介になるんだろう。

お金もない、コネもない、目標もない。時間だけはある。そんなノーテンキな大学生、世之介の1年間を追った青春小説。ケータイのない時代、地方から上京した大学生って、こんなんだったよな。と、ほぼ世之介と同世代のワタシは思い出す。ケータイもメアドもないから、電話ボックスから友人の固定電話に留守電を残す。グーグルもないから、104番で電話番号を検索する。そんな時代だったけど、別に不便じゃなかったし、楽しかった。

それにしても、吉田修一氏の小説には毎回、驚かされる。ワタシが読んだ作品は、「パークライフ」、「さよなら渓谷」、「悪人」くらいだけど、本作を含めてこれら4作品、とても同じ作者とは思えない。作品のジャンルにテーマ、雰囲気すべてが違う。実績のあるベテラン作家なのに、独自の色を持たず、新しい作品に常にチャレンジ。それって、すごく勇敢だ。

そんな何色にも染まらない著者が作り出した、あっさりと他人の色に染まってしまう横道世之介。彼はバブル期に青春を謳歌し、40代となった現在でもやっぱり他人に流されるまま、事件に巻き込まれる。

語られる彼の人生は大学1年生のときだけ。そして、20年間をすっ飛ばしていきなりの大事件発生。でも、彼はのらりくらりと、20年間を過ごしたんだろうってことはわかる。それは他の誰とも違う「世之介らしい」生き方。すばらしいとか、幸せとか、そんなありきたりなコトバでは形容できないオンリーワンな生き方だ。

2013年1月11日金曜日

「われ、敗れたり」~米長邦雄を偲ぶ


将棋においてコンピュータと人間のどちらが優れているのかを考えると、進化を止めないコンピュータに対して、人間はいずれ歯が立たなくなるんだろう。人間にはコンピュータにない勝負感や感性などがあるといっても、ミスをするし。

ただ、現時点ではコンピュータ棋士も過渡期であり、まだ人間にも勝ち目があると思う。そして、2011年にコンピュータ対人間の「電王戦」が開催され、ネット中継された。

コンピュータ代表は最強の棋士「ボンクラーズ」。一方の人間代表は、プロ引退7年が経過し、日本将棋連盟会長であった67歳の米長邦雄氏。なぜ、人間側はバリバリの現役棋士ではなく、そんなご老体が選ばれたのか。本書ではまずそこから説明がなされ、しだいに米長氏の将棋界全体を考えた深い読みが明らかになる。勝負も大事だが、将棋界の活性化、発展も大事だという将棋連盟会長としての立場を重視した見事な戦略だ。

もちろん対局者として選ばれた以上、米長氏は現役時代の棋力を取り戻そうと、特訓に明け暮れるのだが、氏は自身がコンピュータよりも弱いことを自覚する。まともにぶつかっては勝ち目がない。その結果、生まれたのが後手の第1手「△6二玉」。通常の将棋において、第1手に玉(王)を動かすことはまずあり得ない。しかし、米長氏は対コンピュータにはこの手こそが最高の手であると確信する。

果たして、この第1手が最善手だったのか。対戦は米長氏が敗れてしまったため、その答えはまだはっきりしていない。しかし、対コンピュータに挑んだ老棋士が打った「△6二玉」は将棋史において、長く語り継がれるのだろう。

ところで、この本出版後、故人となった米長邦雄氏、将棋界における実力はもちろんだが、名言・珍言を残したことでも有名だ。「兄は頭が悪かったので東大に入学し、私は頭が良かったので将棋界に入った」、「やってみたいスポーツは段違い平行棒」、「初ツイッター、トイレなう」などの有名な発言やヌード写真公開、様々な女性遍歴などがある。事前に奇人「米長邦雄」を知っておけば、本書はもっと楽しめる。

昨年の2012年12月没。

2013年1月2日水曜日

和牛詐欺~安愚楽牧場の真相に迫る




安愚楽牧場のことは覚えている。小泉首相の頃だ。日本もそこそこ景気が良く、それに比例してワタシの家計もそこそこ景気が良かった。財テクなんぞを考える余裕も時間もあった。で、株取引にも興味があり、定期的に金融系の雑誌も購入していた。

その雑誌に安愚楽牧場の広告はほぼ毎回載っていたと思う。牛の購入代金に投資し、その牛と生まれた子牛の売却益が配当される。株式や外貨と比べて、「牛」に投資するというのがロマンを感じるし、生まれた牛はどんどん成長するはずだから、配当も確実性があるような気がしていた。資料請求してみようかなと、家族で話をしたこともあったっけ。

そんな昔を思い出しながら、驚いた安愚楽牧場破綻のニュースだった。投資者7万人、被害総額4300億円は消費者事件として戦後最大らしい。

未だこの事件は詐欺だと確定されていないが、本書の著者は「詐欺」だと断定。安愚楽牧場の財務状況から分析すると、平成13年頃から、出資金を投資に回さずに、そのまま配当に流用する、いわゆる自転車操業状態だったと述べる。さらに安愚楽牧場の行き当たりばったりな素人経営も暴露する。そもそも牛へ投資して、配当するという「和牛商法」自体、投資商品として成立しないことはすでに詐欺と認定されている「ふるさと牧場事件」で明白だ。

さらに著者は安愚楽牧場事件およびふるさと牧場事件という2大詐欺事件を例として、詐欺事件の根強さを被害者側、加害者側、行政側から分析する。

ところで、この安愚楽牧場を当時、大絶賛していたのが海江田万里氏。この事件は未だ真相究明中だし、被害者側からも訴えられているのに、そんな人を代表とする民主党・・・。




2013年1月1日火曜日

「孤高の人(上下巻)」を読む

昭和初期の日本で、クライマーの歴史を切り開き、31歳の若さで消息を絶った加藤文太郎の短くも太い人生を描いた山岳小説。

 

上下巻の長編で貫かれるのは加藤の山登りに対するすさまじい執念。本業は造船所の技師だが、彼はトレーニングとして通勤時に石の入ったリュックを担ぎ、有休と給料のほとんどを登山につぎ込む。そんな変人に会社の同僚が温かいはずもないが、彼はそれでも山へ突き進む。

会社でも孤独な加藤は山でも孤独、というより孤独を愛した。「黙っていることにかけては、誰が来ようと加藤に勝つものはなかった。」って、自慢にならない自慢もしている。

加藤が生きた昭和初期、登山は道具や食料が今ほどコンパクトじゃないから、仲間と協力して荷物を分担するのが常識。しかし、加藤は会社で定められたわずかな休日をやりくりして、限られた日数で複数の山に挑む。そのため、パーティを組もうにも他人とのスケジュール調整ができず、単独で登らざるを得ない。

彼は思い立てば、一人で山へ向かい、休憩や食事の時間を惜しみながら、わずかな日数で山頂を制覇する。仲間がいないことで、登山服や持ち物、食糧に突飛なアイデアを加えても、無口な加藤にとっては説明する手間が省け、誰にも邪魔されずに試行錯誤することができた。そうして生まれた非常識ともいえる彼独特のスタイルでありながら次々と山を制覇する彼は「単独行の加藤文太郎」と呼ばれ、山岳界の注目を浴びる。

そんな孤独な登山を愛した加藤だが、やがて会社でも出世し、妻子を持ってからは「孤高の人」である自分に疑問を感じるようになる。彼はついに単独行をあきらめ、パーティによる登山を決行する。それが最後の登山となる。

山中でのサバイバルに疲れ、人と協力し合うことに喜びを感じるようになったとたん、山は加藤に死を与える。それも、仲間による無謀な計画に引きずられての結果だ。「単独行の加藤文太郎」という名声が現在でも語り継がれているのは、初めてのパーティ登山がこの結末だったからであり、本人や遺族にとってはなんとも皮肉なニックネームだ。

ところで、作者の新田次郎はこの小説連載中のことを以下の自伝で詳しく述べている。当時、作者は気象庁に勤めながら作家活動をしている。加藤と同じく兼業職人であった。加藤は技師としてもクライマーとしても決して手を抜かなかったし、言い訳をしなかった。最後の登山でも、他人の責任に転嫁することなく、全力で自分のできることを実行した。2足の草鞋を履く同志として、また自分への戒めとして、作者は加藤を描き、応援したんだろう。